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SICPA 信頼の裏の謎多きビジネス

SICPA 信頼の裏の謎多きビジネス

ロゴ https://stories.swissinfo.ch/sicpa

序章

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遠目には普通の工事現場に見える。土埃の舞う地面には巨大なクレーンがそびえ立ち、建設中の広大な敷地には柵が設置されていて入れない。保護帽をかぶった作業員たちが慌ただしく行き交う。ここはヴォー州ローザンヌ北西の町ピュリー(Prilly)。何の変哲もない工業エリアだ。だが、ここに完成する複合施設は、単なるガラス張りの建物の集まりではない。

「信頼性ある経済を促進するテクノロジー・ソリューション」の発展を目指す、「アンリミトラスト・キャンパス(Unlimitrust campus)」だ。

ヴォー州と連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)の支援を受けるプロジェクトで、トレーサビリティー分野の研究・技術開発を促進する協力体制の構築を目的としている。

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この「エコシステム」の生みの親が、20世紀初頭にこの地で誕生した家族経営企業「SICPA(シクパ)」だ。頭文字から成るこの社名は一般にはあまり知られていないが、世界中のほとんどの人は何らかの形で同社の主力製品に触れたことがあるはずだ。それはインクだ。
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SICPAは印刷会社でも出版社でもない。複製不能な最高級インクを製造するメーカーだ。100年近い歴史があり、その「魔法のレシピ」で作り出されるインクで世界を席巻してきた。最初は紙幣印刷に、そして多くの国で酒やたばこをトラッキング(追跡)する印紙や印字に使用されている。SICPAはその信頼性の上に名声を築き上げた。
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ほぼ1世紀の間、この信頼は秘密主義に頼ってきた。創業者一族が所有する非上場会社は、外部出資者への説明責任を負うこともない。経済紙はほとんど目を向けず、これまでに漏れてきたわずかな情報は同社の広報がリリースしたものだ。
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今回の取材ではその「秘密主義」を実感した。情報提供者が会社と親密であればあるほど、匿名を希望する傾向が強かった。元社員、現社員、競合他社など20人ほどに行った取材では、全員が同じ条件を出した。SICPAとその活動領域を知る人は、秘密保持が鉄則であることを知っている。内部関係者以外には、ほとんど何も明かされることは無い。
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それでも数年前から、この秘密主義的な文化が崩れている。SICPAは現在、スイス国内外で複数の汚職捜査の対象になっている。これらの捜査が有罪判決に至らない限り、もちろん推定無罪の原則が適用されることは明らかだ。また、SICPAは、本稿で言及したそれぞれの疑惑についてコメントする機会があった。私たちの調査はその大部分が捜査資料や法律文書、相続人間の訴訟資料に基づいている。
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非政府機関(NGO)「パブリック・アイ」の調査員、アドリア・ブドリ・カルボは、「忘れてならないのは、スイスで外国公務員への賄賂が違法とされたのは2000年になってからだということ。企業はそれまで、『手数料』を経費として計上し税金からも控除できた。リスクのある国で長い間ビジネスを展開してきたスイス企業の中には、適応しきれない企業もあった。この文化が変わるには、時に痛みを伴った」と話す。
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アモン家の後継者が代々指揮を執る長い年月の中で、創業理念は風化してきた。、世界数カ国での活動が2015年から捜査対象となり、今やスイス連邦検察庁に汚職の容疑をかけられる。当初はガーナ、トーゴ、フィリピン、エジプト、ブラジル、インド、カザフスタン、コロンビア、ナイジェリア、パキスタン、セネガル、ウクライナ、ベネズエラ、ベトナムの14カ国での活動が対象になった。

連邦検察庁は現在も捜査継続中であることを認めたが、詳細については明かさなかった。SICPAはブラジルで事業を継続するため、1億3500フラン(約201億1630万円)を支払って法的問題に決着をつけたが、スイス当局に対しては無実を主張し続けている。

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21年には、現取締役会長のフィリップ・アモンもまた、外国公務員への贈賄容疑で起訴された。競合他社が注視する中、こうした疑惑は同社の評判に重くのしかかる。
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私たちはSICPAの原点にまでさかのぼり、現在も続く混乱の実態を明らかにしようと調査を行った。数カ月にわたり国の公文書を調べ、裁判資料を分析し、現地駐在員や業界関係者、専門家の協力を得て同社の海外での活動を読み解きながら、このヴォー州で最も謎めいた企業を調査を続けた。情報提供者のほとんどが匿名を条件に取材に応じた。

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乳牛から紙幣へ

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1927年のローザンヌ。夜明けの凍てつく寒さの中で、何千人ものスイス人が一本足のスツールに座って牛の乳を搾る。何世紀もの間貧困に苦しんでいたスイスは、成長を遂げ、甘いミルクとまろやかなチョコレートで知られるようになっていた。牛舎では酪農家が搾乳用のグリースを手に塗り込む。ひび割れから肌を守り、牛の乳房を傷つけないようにするためだ。そのグリースをヴォー州で広く供給していた1人が、モーリス・アモンだった。
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彼についてはほとんど知られていない。1880年にギリシャのロードス島で生まれたセファルディ系ユダヤ人で、若いころスイスに移住した。とても勤勉で、彼が作り出した搾乳用グリースは瞬く間に成功を収めた。パラフィンとワセリンを配合したグリースは、スイス人化学者のアドルフ・パンショーが1882年に考案した。そのコンセプトを元に、モーリス・アモンは目を引く包装を施して売り出した。三角眉で口ひげをたくわえたこの人物は、2度の大戦の合間に赤と白の箱入りグリースを大量に売りさばいた。その会社が、「Société industrielle et commerciale de produits alimentaires(食品商業・工業会社)」、略して「SICPA(シクパ)」だ。
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時は流れ、繁栄の時が訪れる。まずは第2次世界大戦中に中立の立場を活かして資本を受け入れ、質の高い産業を発展させたスイスに。そして名声を得たSICPAに。
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だが、モーリス・アモンは飽き足らなかった。搾乳用グリースの売れ行きは順調だったが、さらなる事業拡大を目指していた。やがて野心家の長男アルベールと共に、グリースが別の物の製造に不可欠な要素であることに気付いた。それがインクだった。20世紀初頭、オフセット印刷技術が急速に普及していた時期だ。油脂を混ぜた顔料を版に塗布し、空白を残す部分は水で湿らせる。世界中の報道機関はこの新技術のおかげで発行部数を増やし利益を上げていった。産業革命が進み、経済は変革の時を迎えていた。
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第2次世界大戦後、各国政府は紙幣を印刷する必要に迫られ、高品質なインクの需要が爆発的に高まった。思いがけない幸運だ。SICPAも他の企業と同様に戦禍を免れ、厳格な基準と高い品質が評価されていたスイス産業の恩恵を受けた。製品の独自性と勤勉な社員の努力が実り、可能な限り精巧で偽造が不可能ではないにしても極めて困難な紙幣の設計依頼がSICPAに舞い込んだ。1943年に初めてスペインが100ペセタ紙幣の印刷にセキュリティーインク(偽造防止インク)を発注し、米国のドル紙幣が続いた。SICPAに幸運の女神がほほ笑んでいた。
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私たちはベルンの連邦公文書館を訪れた。その資料からは当時のSICPAの精神が読み取れる。「SICPA SA」とレターヘッドの入った書類にはこう記されている。「1948年4月8日、ブエノスアイレスのアルゼンチン共和国造幣局長より、紙幣印刷用としてインク1万2500キログラム、金額52万5584フラン(現在のおよそ260万フラン、約3億8760万円に相当)の発注がありましたことをここに謹んでお知らせいたします」。モーリス・アモンが署名した連邦経済省宛ての書簡だ。

ローザンヌ近郊のマレー工業地帯にある小企業が、なぜ当局に通知する必要があったのか?歴史学者で古文書専門家のチボー・ギディは、当時は顧客から製造業者へ直接支払いが行われなかったと説明する。「まずスイス政府がSICPAの国内口座に金額を振り込み、政府がアルゼンチンから同額を回収するという仕組みで、国際貿易で広く使われていた精算システム」だという。
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ベルンの公文書館で調べたこの黄ばんだ手紙には、特筆すべきことは無い。SICPAの謙虚な姿勢と規律へのリスペクトが感じられる。この時からSICPAの快進撃が始まった。近代的製法で作られる耐久性インクは、競合他社の追随を許さなかった。1950年代、年老いたモーリス・アモンに代わって経営を徐々に引き継いでいったのは、父親のように献身的に働いていたアルベール・アモンだった。

両親がアモン家の友人だったローザンヌの弁護士は、「アルベールは真の実業家としてセンスのある、並外れた人だった」と語る。「凄腕のビジネスマンで、膨大な仕事をこなす能力と紳士としての評判を持ち合わせていて、成功していった。厳格で、約束を守り、強く、公正であると同時に、とても寛大で、家族を大事にする人でもあった」

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52年、アルベール・アモンは友人のイタリア人印刷工、グアルティエロ・ジオーリを説得し、ローザンヌに呼び寄せる。両者の工場は密接に連携して働いた。この時期の数年間でSICPAはブランド力を高め、新顧客を開拓し、品質向上に向けて研究室で試作を重ねていった。モーリス、そして特にアルベールは新インクを開発するたびに特許を登録し、ローザンヌ大学と共同で紙幣用インクの規格基準も作成した。今日SICPAは5千件以上の特許を所有しているという。
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1969年、国際刑事警察機構(ICPO)が紙幣印刷の世界基準としてSICPA規格を採用した。当時まだヴォー州の零細企業にすぎなかった同社にとって驚くべき成功だった。さらに80年代後半には、SICPAの技術者が紙の角度や光の加減で色が変化する光学可変インクを開発した。手書きの署名のように複製不可能で、顧客ごとにカスタマイズした唯一無二のインクが製造できるようになった。
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2000年代初め、ドイツの「グレイツマン・セキュリティー・インク(Gleitsmann Security Ink)」などの競合他社が現れたにもかかわらず、SICPAは紙幣市場の大部分を占めるようになった。今日も世界で流通する紙幣の全て(日本円だけは何らかの理由で例外だ)にSICPAインクが使われていると噂されるほどだ。

そんなSICPAはどのように多角化にも成功したのか?それは、紙幣偽造とは別の犯罪、つまり酒やたばこを偽造して密売する違法取引対策を通してだった。
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経済協力開発機構(OECD)の2016年の報告書によれば、世界の違法取引は年間約5千億ドル(約72兆円)の損失をもたらしている。政府は酒税やたばこ税を徴収できずに歳入が圧迫される。

18年のスイスの損失額は44億5千フランに上ると試算されており、服飾・靴・皮革製品及び関連製品部門の損失が最大(同部門輸出額の12.5%)で、次いで時計・宝飾品部門(同6.1%)となっている。
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密売問題へのSICPAの提案はシンプルだった。アルコールやたばこなど、偽造されやすい製品に貼る正規品証明の特殊な紙、つまり納税印紙に自社インクを使用する。特殊インクと緻密なデザインを使用すれば印紙の複製は不可能で、その製品が正規に製造され、税務申告されたことを保証できる。 

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その次のステップは、印紙システムの導入を各国政府に働きかけ、信頼を得ることだった。紙幣印刷インクの販売のように、慎重さ、技術、専門性がカギだ。SICPAはそれまでの人脈を頼りに、契約を求めて世界中を回った。やがて事業拡大への野心から危ない橋を渡り始め、ガバナンスがほころび始める。

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国境のない市場

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スイスメディアはSICPAの躍進を称賛したが、信頼できる数字はほとんど公表されていない。同族会社であり、株式市場で資金調達もないため、詳細な財務データを開示する必要もない。仏語圏の日刊紙ル・タンによると、売上高は03年の推定7億5000万ドルから15年には15億ドルに増えた。
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SICPAはswissinfo.chに対し最新データの開示を拒否したが、収益の大部分は現在も紙幣市場から得ていると回答した。

だが、SICPAの納税印紙部門「SICPAトレース」の売上げは年々拡大している(総売上高に占める割合は明かされていない)。知る人は少ないが、印紙市場は巨大で、途上国にとっては重要な収入源だ。

過去20年間にSICPAは、22カ国で33件以上の契約を結んだ。同社によれば、現在もアフリカの6カ国を含む17カ国で同社のソリューションが使われている。
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例えば、モロッコ・カサブランカのホテルが宿泊客にウイスキーを提供したいなら、正規店から購入する必要がある。さもなければ法律違反だ。米ロサンゼルスのたばこ屋は、印紙付きのマルボロやキャメルしか販売できない。印紙が無ければ違法たばこだ。

SICPA独自の印紙は、商品の合法性を保証し、納税を証明する。ボトルやパッケージにこの印紙を貼るだけで、酒やたばこの偽造・違法取引を防げるというわけだ。

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理論上は理想的なシステムと言えるだろう。政府は1銭も支出することなく増収を見込める。差額を払うのはたばこメーカーやアルコールメーカーで、多くの場合、販売価格に転嫁されて消費者の負担になる。

私たちは例外的にピュリーの本社取材を認められた。窓に囲まれ、「S」と「A」のつながった同社ロゴがついた黒い長方形の普通の建物だ。通常、ジャーナリストの取材は断られることが多く、許可が出るのは極めてまれだ。今回の対応は、「透明性」というSICPAが現在目指す企業イメージにも沿っている。

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2021年11月19日、私たちは機械や印字入りの製品が誇らしげに並べられた小さな展示室に通された。同社には珍しく、マーキング・トレーサビリティー・ソリューション部長のルジェロ・ミラネーゼが自ら対応した。SICPAトレースの成功を称える数字には事欠かないようだ。ケニアではシステム導入初年度に、酒・たばこ税収が45%増えたという。ブラジルでも09年に歳入が30%増え、マレーシアは導入初年度の04年の税収が1億ドル増えた。アルバニアでは2010年のビール生産量が統計上50%増えたという。

同部長は、「好循環でしかない。製造者は、現地でもはや違法品を販売できなくなるとをすぐに理解する。市場が健全化され、闇取引が縮小する。当然の成り行きとして税収と国内総生産(GDP)は増える」と話す。

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SICPAはトーゴでの仕事を誇りにしている。20年9月1日から、国内全ての酒類・たばこ工場と輸入品を扱う工場の生産ラインにSICPAの機械が設置された。ビール瓶にラベルを貼り、箱詰めにして小売店へ送る直前に、蓋には納税印紙で封がされる。
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遠目には郵便切手より細長い、鮮やかな緑色の印紙だ。バオバブの木など、トーゴのシンボルが描かれている。近くで見ると光沢があり、ゆっくりと動かせば赤から緑、金色から緑色へと微妙に色が変化する。熱心な切手コレクターが興味を持ちそうなデザインだ。だが肉眼で見えないところには秘密が隠されている。納税済みの正規品であることを証明する特殊コードが施されている。
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その印字工程は、SICPAの機械の上方に設置されたカメラで365日・24時間撮影されている。不正は一切できない。首都ロメのSICPA事務所では、約30人の現地従業員がリアルタイムで映像を監視する。
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私たちは実際に現地でSICPAの設備を見ようと、ロメ行きを計画した。だが実現することはなかった。SICPAとの契約に署名したトーゴ国税庁代表者が同意しなかったためだ。

トーゴの歳入は増加している。同国経済財務省の報告書によれば、SICPAトレース導入前の数年間と比べ、21年のビールとたばこの税収は35%増加した。トーゴ国税庁のこれまでの試算では、20年のGDP66億ユーロ(約9兆3200億円)のうち密売が約2200万ユーロを占めていた。

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だが、SICPAの進出を誰もが喜んでいたわけではない。当局がこのプロジェクト導入にいくら支払ったのか、実際にはいくら回収できているのか、そしてSICPAに支払われるシステム管理費がいくらなのかは、誰も知らない。

公契約に詳しいトーゴのジャーナリスト、ゴドサン・ ケトマニャンは、「製品印字システムが入札を経ずにSICPAと結ばれた」と非難する。「政府が競争入札制度を導入したのは、汚職や共謀を撲滅するためだったはずだ。直接交渉が賄賂や不正行為に門戸を開くのは分かりきったことだ」

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密売人はもちろん、競争相手からも不評を買った。長年にわたり、SICPAの成功は、たばこ会社、特に業界2大企業のフィリップモリス・インターナショナル(PMI)とブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)の怒りを買ってきた。あるたばこ業界専門家は匿名を条件に、SICPAとたばこ大手との間で激しい商業戦争が繰り広げられていると話した。
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フィリップモリスの欧州本部はSICPA本社からわずか数キロのところにある。だがシステムの共有を望まなかった。同社は07年から、自社たばこ製品の認証・追跡プログラムとして、「コーデンティファイ(Codentify)」を売り出している。
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このような緊張の高まる市場の中で、SICPAは是が非でも各国政府の信頼を得ようと次第に強気のアプローチするようになる。それは、現地の有力者を仲介人として油田や公共事業用地へのアクセス権を獲得していく、コモディティ取引企業の手法にヒントを得ていた。もはやSICPAは、搾乳用グリースや創業時の純粋さからはるか遠くにまで来てしまった。市場の「大舞台」で勝負するには、時としてリスクを冒すことも重要だ。
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汚職疑惑

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2007年1月26日、フィリピンのグロリア・マカパガル・アロヨ大統領(当時)がダボスのベルヴェデーレ・ホテルのラウンジに姿を現す。付き添うのはハンス・シュワブ。SICPAの経営幹部で、世界経済フォーラム(WEF)の創設者クラウス・シュワブの甥にあたる。レセプションのホストを務めたのはSICPA創業者の孫で後継者のモーリス・アモンだった。

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前菜の前の短い挨拶で、「ありがとうございます、ミスター・アモン」と大統領は切り出した。「この素晴らしい夕食会と優しいお言葉に感謝します。まだ食事は始まっていませんが、このフォーラムのビジネスディナーの中でも、招待客リストや出席者ではこのディナーが一番だと聞いています。どうもありがとうございます」
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ハンス・シュワブの視線は、大統領から一時も離れることが無かった。理由は明白だ。フィリピンにSICPAの最新商品「SICPAトレース」の採用を働きかけなければならない。たばこやビールなどの課税対象製品を、製造から輸送トラック、港から店頭まで、随時追跡できる技術だと売り込むのだ。

SICPAはフィリピン財務相への提案の中で、この技術を導入すればたばこメーカーで横行する脱税を阻止できると主張した。密造で国庫が被る損失は1日100万ドルにも上っていた。ハンス・シュワブは、年間5千万ドルの5年間契約で脱税を食い止められると約束した。

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問題は、この奇跡の解決策「SICPAトレース」がまだ開発途中だったということだ。これまでの収入を支えてきた紙幣用インクの売上げが減少する中で、SICPAは社の将来をかけてこの技術開発に多額の資金を投じていた。だが4年間の努力の末に、まだ1件の契約にも至っていなかった。
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SICPAトレースの販売を最初に試みたのは02年、相手はフィリップモリスだった。模倣品を取り締まり、各国政府の密輸対策に対応できるようたばこメーカーをサポートする計画だった。

1箱ごとに目に見えないバーコードを印字し、製造ラインの最終工程と製品の入国地の税関ブースに設置する読取り機の研究・開発に、SICPAは何百万ドルも費やしていた。しかも、目標コストは1箱につきわずか0.01フランだった。

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だがSICPAは売り込み先を間違っていた。1分間に最大700箱を製造するフィリップモリスの製造ラインに設置するには、SICPAトレースは遅すぎた。最終的にこの米多国籍企業は、ライバル技術となるコーデンティファイを独自に開発した。

SICPAは経済発展中の東南アジアに目を向け始めた。

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SICPAの技術に関心を示したのはマレーシアだった。04年、SICPAはマレーシアのたばこ産業とトレーサビリティー部門で第1号となる契約を結んだ。

契約に署名したのは現地企業のリベラル・テクノロジー(Liberal Technology)で、SICPAはその下請けだった。米イリノイ大学と南アフリカのケープタウン大学の研究者が執筆した15年の報告書によれば、この契約は公開入札が行われることなく「不透明な」プロセスで結ばれた。あるたばこ業界関係者は、この現地企業がマレーシア政府関係者とつながりがあったと証言している。
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このたばこ追跡の試みは、すぐに失敗に終わる。報告書の筆者が指摘するように、マレーシアのたばこ業界はトレーサビリティーシステム導入に「一貫して反対」してきた。04年に制度が導入された後は一時的に違法たばこの消費量は減少したが、翌年に試験期間が終了すると違法売買が再開した。
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その後の4年間(2006〜2010年)で、マレーシアの違法たばこ販売量は2.5倍にまで増加した。
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07年1月、ダボスにいたアモン家の後継者フィリップとモーリスの目的は明確だった。フィリピンとの交渉は絶対に成功させなければならない。この巨大市場で新たな契約を取り付ければ、マレーシアの失敗から立ち直るチャンスになるはずだ。

司法の透明性の原則にのっとってswissinfo.chが入手した資料から、07年のダボス会議で開かれた例の夕食会の裏が見えてきた。外国公務員に対する汚職疑惑でSICPAを捜査するスイス連邦検察庁の捜査資料だ。数カ国における同社の活動について14年に始まった捜査は、現在も進行中だ。

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20年9月付の資料は、捜査のきっかけを要約している。07年にアロヨ大統領がダボス会議を訪れる数カ月前に、モーリス・アモンとハンス・シュワブが大統領関係者らと密約を交わしたとされる。

資料には、両氏がアロヨ大統領の夫であるホセ・ミゲル・アロヨの甥、アンソニー・アロヨと会合を持ったことが記されている。アンソニー・アロヨはマニラで特に人脈が広く、大統領の夫と縁故関係にある他に、イギー・アロヨという別のおじで有力な国会議員の後ろ盾もあった。

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その06年の会合で、アンソニー・アロヨは現地のSICPA代表として、フィリピンの平均年収(約3850ドル)をはるかに上回る月5千ドルで採用された。それだけではない。20万ドルの「成功報酬」も合意された。

採用の目的はSICPAが「おじと大統領府と良い関係を維持する」ためのサポートとされる。資料には、「その手数料の一部がホセ・ミゲル・アロヨ氏に渡ることは当時明らかだった」とある。
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つまりSICPAは公契約の受注と引き換えにフィリピン大統領の夫に報酬を払う用意があった。連邦検察庁によれば、「外国公務員に対する贈賄行為」に該当する可能性があり、スイスの法律では5年の禁錮刑に処される。

連邦検察庁は、SICPAトレース以外にもアロヨ家との合意があったとしている。3年後の09年にはフィリピン中央銀行へのインク供給という新たな契約が結ばれた。今度の「成功報酬」はさらに高額で、入手した資料によれば、年間300万ドルの支払いがインク供給期間の6~7年に渡って約束されていた。

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だがこうした働きかけにもよらず、事態はうまく進まなかった。SICPA自身は大手たばこメーカーの中傷キャンペーンの犠牲になったと考えている。数年前のマレーシアの時と同様に、SICPAトレースを潰そうとする激しいロビー活動が展開されていた。ハンス・シュワブはフィリピンのマスコミや議会委員会でSICPAトレースを弁護したが無駄に終わった。

フィリピン政府に対し、SICPAの他に競合2社が独自のセキュリティー・マーキング・ソリューションを提案した。中国の完全無名の小企業と、強力なフィリップモリス・フォーチュン・タバコ(PMFTC)だ。後者はフィリップモリスが中国系フィリピン人の有力実業家、ルシオ・タンと設立した合弁会社で、フィリピンのたばこ市場の実に90%以上を支配している。

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その後間もなく、フィリピン政府はスイス企業のオファーを退けた。内国歳入庁長官のキム・ヘナレスは、後になってSICPAのオファーをこう批判した。「有用ではあったが、SICPAの技術は政府のニーズにとってあまりにも高度で高価なものだった。まるで、芝生を刈るのにシンプルなナタかボロナイフが必要だと言っているのに、高性能な芝刈り機を提案されたようなものだ」。最終的にフィリピンは14年に独自のたばこ税印字システムを導入したが、違法取引を抑制することはできなかった。
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マニラ駐在員だったハンス・シュワブは09年にSICPAを退社している。そもそも、彼の大統領府とのコネクションは価値がなくなっていた。大統領の夫ホセ・ミゲル・アロヨは汚職疑惑で集中砲火を浴びて国外に脱出。妻のアロヨ大統領もその後長くはもたず、10年に大統領職を退き、翌年には選挙違反と横領容疑で逮捕された。

SICPAとアロヨ大統領の親族が合意した「成功報酬」が実際に支払われたかどうかは不明だ。この点については、連邦検察庁もSICPAもコメントを拒否している。

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大金が動いたブラジル

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フィリピンとの契約失敗で苦汁をなめたSICPAは、すでに別のところに目を向けていた。今度は世界の裏側でチャンスが訪れた。

07年にたばこ製品のトレーサビリティーでSICPAと契約を結んだのはブラジルだった。政府はこのトレーシングシステムを、さらにアルコールや清涼飲料課税に適用することも検討していた。大きなチャンスだった。飲料品分野の密輸や違法取引で、国の税収に何十億ドルもの損失が出ていた。03年の脱税はノンアルコール飲料で総売上高の30%、ビールで15%に上ると推定されていた。

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そこに入り込んだのがSICPAだ。新しいミッションの遂行に選ばれたのは、SICPAの元米国支社副社長のチャールズ・フィンケルだった。定期的にピュリー本社を訪れていた、モーリスとフィリップ・アモンの腹心の友人だ。

個人コンサルタントとして雇われたフィンケルは、申し分のない経歴を持っていた。ブラジルで長年の職務経験があり、この国を熟知していた。SICPAの仕事と並行して、自身が経営するCFCコンサルティング・グループでコンサルタントとしても働いていた。

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08年、SICPAのブラジル子会社が、紙幣や納税印紙を印刷する国営企業「カサ・ダ・モエダ(ブラジル造幣局)」と「SICOBE」契約を結ぶ。国内で販売される全ての炭酸飲料とビールのトレーサビリティーを改善する、契約金額にして33億レアル(約20億フランに相当)に達した、世紀の大契約だった。

SICPAのシステムは高価で複雑だった。飲料メーカーは工場で手作業でラベルを貼る代わりに、各ボトルに自動的に印字する機械を生産ラインに設置する必要があった。即興で手を加えられるような代物ではなかった。飲料業界ロビーの調査によれば、SICOBEシステム導入後ブラジルの税収は20%増加した。

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だがブラジル連邦警察がすでに複数の汚職スキャンダルに揺れていた造幣局の捜査に乗り出した2015年、事態は一変する。捜査作戦「オペラソン・ビシオ」によって、数カ月後にはSICPAがSICOBE契約を獲得するまでに取った行動が明らかになる。捜査の結果はSICPAに非常に不利なものだった。
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ブラジル連邦警察の調べによれば、SICPAの「副社長」は連邦税務局のマルセロ・フィッシュに1500万ドル超の賄賂を支払っていた。造幣局はどのシステムを採用すべきかについて、専門家としての助言をフィッシュに求めていた。賄賂は09~15年の間の5年間に、妻名義の銀行口座に毎月25万ドルずつ振り込まれたとされる。資金の出所はフィンケルのコンサル会社、CFCコンサルティング・グループだった。

フィンケルは並みのコンサルタントではなかった。ブラジル検察庁によれば、CFCは政府高官関係者への賄賂を「手数料」と偽装せず、フィンケルに自由に交渉させ、彼自身からフィッシュにキックバックの振り込みをさせていた。自分の会社を通して行動したことで、フィンケルは甚大なリスクを負うことになる。

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SICPA側の弁論によれば、フィッシュに支払われた1500万ドルはフィンケルが自らの懐から出したものだった。この点を問われるとSICPAは、フィンケルが「コンサルタントとして独断で行動したもの」と回答している。

だがある関係者は、SICOBEの契約獲得に尽力した報酬としてSICPAが支払った多額の手数料から、同額が差し引かれたと述べた。捜査では手数料の額は明らかになっていない。
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swissinfo.chの質問に対し、SICPAは主張を曲げなかった。「不正な支払いは当社の関与、意図、認識しないところで第三者によって行われたもの」だとし、その支払いの事実によって「ブラジルで結ばれた契約の有効性が疑われ、当社とその経営陣の刑事責任が問われるものではない」と回答した。

16年、SICOBE契約は更新されなかった。SICPAが工場に設置した機械は稼働を停止し、飲料メーカーは急きょ従来の手作業システムの再導入を余儀なくされた。SICPAにとっては大打撃だった。17年6月、ピュリー本社で150人、ブラジルで850人の人員削減が発表された。

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19年、フィンケルはブラジル裁判所から汚職罪で11年半の禁錮刑を言い渡されたが、控訴の結果、2審で無罪となった。

21年6月7日、SICPAはブラジルの汚職対策行政機関である連邦監査事務局と「リニエンシー・アグリーメント(制裁措置減免合意)」を交わし、「賠償金」として1億3500万フランを支払うことに同意した。ちなみにスイスの企業汚職に対する罰金は500万フラン以下だ。

SICPAは同日に発表した声明で、「一部の支払いに関する不当性」について「客観的な責任」を認める一方で、「問題とされた一連の契約が不正に取得された」ことは否定した。「ブラジルでのこれらの支払いについて、当社側の関与、認識、意図があったとは一切証明されていない」と主張した。制裁減免合意により、SICPAはブラジルで入札参加資格を取り戻した。

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ブラジル司法当局は22年5月、19年の有罪判決を不服として控訴していたフィンケルと元税務局職員のフィッシュの両氏を無罪とする最終判決を下した。リオデジャネイロ控訴裁判所の裁判官は、当時造幣局職員ではなく独立した専門家だったフィッシュが、造幣局に対して行われた汚職事件で不当に有罪判決を受けたと判断した。

フィンケルの弁護人バルセロ・ベッサは即座にブラジル報道機関に対し、「当判決は、具体的事件でいかなる犯罪もなかったことを証明するもの」として判決を歓迎するコメントを出した。

判決文と同時に公表された反対意見では、控訴審の3人の裁判官の1人が、「犯罪の実在性と所在」は「十分に証明されている」とし、「フィッシュは、数百万ドル相当の不当な報酬と引き換えに(中略)、造幣局がSICPAを採用するプロセスにおいて決定的な役割を果たした」と述べていた。

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この裁判官は、フィッシュが技術的な実現可能性を探る調査を利用し、造幣局のニーズと完璧に一致する入札書を作成できるようSICPAに便宜を図ったと説明している。

だが他の2人の裁判官はこの議論に耳を傾けることなく、フィッシュを無罪にした。収賄者がいなければ、贈賄者も存在しない。そのためフィンケルにも同様の無罪判決が下された。

SICPAは、「フィンケル氏とフィッシュ氏を贈収賄で無罪とした裁判所の判決を嬉しく思う。この判決は、元ブラジルコンサルタントの裁判における当社の起訴事由に、根拠がないことを示している。それは当社がこれまでにも主張してきたことだ」と述べた。

ブラジルの判決は、同社とその社長であるフィリップ・アモンを調査中のスイス連邦検察庁の捜査に影響を与える可能性がある。当初は14カ国での活動が捜査対象だったが、SICPAによれば、現在はコロンビアとブラジルを含む4カ国だけになっているという。この点について連邦検察庁はコメントを避けた。

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スイスの捜査

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SICPAが法的問題を起こしたのはブラジルだけではない。同社の活動は、09~14年の間に複数の国で当局の注意を引いた。こうした疑惑を受けてスイス連邦検察庁も動き出したが、捜査開始の引き金になったのは意外にも、米国からの情報だった。

14年末、スイス当局に米国司法省から捜査共助要請の「ドラフト」という奇妙な文書が届く。スイスに捜査協力を求める外国当局は通常、下書きではなく完成した要請書を直接送付してくる。後日さらに詳細な要請を追加することもある。だがこの時、米国司法省はそれ以上踏み込まず、SICPAの活動に関する情報をスイスに提供しただけだった。

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このことは、前出の20年9月付けの連邦検察庁の資料にも記述されている。米国の共助要請ドラフトは衝撃の内容だった。米司法省は、モーリス・アモンとシュワブが07年のダボス会議の数カ月前にアンソニー・アロヨと面会していた事実を知らせていた。名前、日付、場所、そしてアロヨ大統領の代理人らと合意した「手数料」の金額に至るまで、あらゆる詳細の記述があった。

スイス連邦検察庁は15年初め、米司法省の情報をもとに「外国公務員汚職」の容疑でSICPAの捜査を開始した。シュワブも捜査対象になった。

だが私たちの調査によると、意外なことに「ドラフト」のあとに正式な共助要請がなされた形跡はない。米国当局がSICPAとフィリピンの活動に関心を持った経緯も明らかにできなかった。この点を問い合わせると、連邦検察庁は捜査が「捜査共助要請の情報に基づいて」開始されたことだけを認めた。

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2015年、スイスの捜査は新たな展開を見せた。ローザンヌに拠点を置く企業「KBAノタシス(KBA-Notasys)」が自ら検察庁に出頭した。SICPAの長年のパートナー企業で、SICPA本社から数ブロックの距離にある紙幣印刷機メーカーだ。アルベール・アモンの支援を受けてグアルティエロ・ジオーリが1959年に設立し、2001年にドイツの産業グループ、ケーニッヒ&バウアーが買収していた。
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KBAは連邦検察庁に対し、08~15年にかけてモロッコ、ブラジル、ナイジェリア、カザフスタンで数千万ドルの賄賂を支払ったと申告した。自ら名乗り出ることで、軽い刑罰で早期の事件解決を願っていた。KBAは全ての事実を明らかにし、2年後に3千万フランを支払って捜査は終了する。

だが連邦捜査員は、KBAの銀行データを精査する中でSICPAとの共通点を発見した。2社は、同じコンサルタントを使って数カ国で現地役人への賄賂交渉をしていた。

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ローザンヌで捜査が再開する。2年前に米国当局が提供した情報をもとに、連邦検察庁は16年秋にSICPA本社を捜索。フィリップ・アモンやシュワブを始めとした十数人の幹部の電子メールを押収した。

ブラジルとフィリピンに続き、スイスの捜査は新たにトーゴ、ガーナ、エジプト、インド、カザフスタン、コロンビア、ナイジェリア、パキスタン、セネガル、ベトナム、ベネズエラ、ウクライナの12カ国に拡大された。

20年9月、シュワブに関する捜査は終了し不起訴となった。だが連邦検察庁はその数カ月後に新たな爆弾を投下する。21年6月14日、経済犯罪専門オンラインメディアのGotham Cityに対し、捜査が「SICPAのオーナーで現CEOのフィリップ・アモン氏」に及んでいることを認めた。

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スイス企業のCEOが外国公務員贈賄の疑いで刑事捜査の対象となるのは非常に珍しい。私たちが知る限り、過去に1度、バーゼルのアメロパ・ホールディング(Ameropa Holding)の会長が16年にリビアで贈賄罪の共犯で有罪判決を受けた事件だけだ。

SICPAとフィリップ・アモンに対する連邦検察庁の捜査は継続中だ。両者とも推定無罪の原則が適用される。

SICPAは今日、連邦捜査に「全面的に協力している」と断言する一方で、一切の責任を否定する。「当社は外部コンサルタントによる違法行為への関与も認識も否定する」とし、「捜査により当社および当社CEOに刑事責任がないことが立証されると確信している」と述べた。

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SICPAによれば、現在も捜査が続くのはブラジルとコロンビアを含む4カ国のみ(残り2カ国には言及せず)。連邦検察庁はこの中南米2カ国でSICPAの行動を捜査中だと認めたものの、捜査対象国の正確な数は明かさなかった。

swissinfo.chの取材に対し、シュワブはコメントを避けた。私たちが得た情報によれば、スイス検察庁がSICPA本社で押収した数千件のメールと文書からは、本稿で名を挙げた一部のコンサルタントへの支払いに、シュワブが反対していたことが示された。

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一族の分裂

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「女性はどこに?」。これまでSICPAを率いてきた歴代社長の顔ぶれを見ていると、そんな疑問が浮かぶ。創業者のモーリス・アモンから始まったこの男性家系を揺るがすものは何もないようだ。世代が変わるたびに1人の後継者が選ばれ、それが女性だったことは一度もない。この男性から男性へのトーチリレーは第2次世界大戦後、アルベールが父と共に会社のトップに就いた時から始まった。弟のサルバドールは会社の舵取りをすることはなく、ただ取締役会に籍を置くだけだった。

なぜサルバドールが経営から外されているのかについては、誰も答えようとしなかった。いずれにせよSICPAは非上場企業であり、経営者は完全に自由裁量で社の決定を下せる。
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アルベールは長年経営に携わり、そのリーダーシップの下で会社は繁栄を遂げた。妻のクローディは義母と同じように献身的に家庭を守り、2人はモーリス、フィリップ、モニークの3人の子に恵まれた。アルベールは半世紀に及ぶ仕事を終えて1996年に引退し、2010年に死去した。

娘はキャリアに興味がなかったと見られ、後継者の座は息子2人によって争われた。2人は5年間会社を共同経営したが、一家と親しい関係者は2人の間が複雑だったと語る。モーリスは旅行や友人とのパーティーを愛する、大らかな人物だった。3度の結婚を経験し、SICPAの仕事で世界中を旅したが、静かなジュネーブの湖畔よりもモナコの豪華さを好む傾向にあった。

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07年の大晦日、2度目の離婚をしたばかりのモーリスは、グシュタードのホテルロビーでトレーシー・ヘジャイランと出会う。カリフォルニア出身の30歳の女性もまた、サウジアラビアの実業家との複雑な離婚から立ち直ろうとしていた。一目ぼれだった。

香港で結婚式を挙げ、その後は豪華なホテルを渡り歩く合間に名画や豪華なジュエリーを買い漁る。その豪遊ぶりは芸能雑誌の見出しを飾った。

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ジェットセッターのパーティーではポーズを取り、グシュタードの巨大なシャレーでは何度も豪勢なレセプションを開いた。仏ビジネス誌のキャピタルによると、夫妻はこの狂乱の時期に5億~7億ユーロを使ったとも言われているが、それは全てSICPAの相続財産だった。
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15年9月、モーリスはモナコで離婚を申請する。だがトレーシーも引き下がらなかった。モナコの法律が自分に不利になるとの危惧から、モナコの裁判管轄権に異議を唱え離婚訴訟を自分の住むニューヨークに移管させようとした。世界のマスコミはこのスキャンダラスなメロドラマを我先にと報道した。代々謙虚な家柄を守ってきたアモン家にとって、耐えがたいことだった。
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15年、兄弟は事業で正式に決別した。フィリップが家業を継ぎ、モーリスは資産を手にした。ル・タン紙によると、モーリスは「徐々に一族の帝国から身を引き、15年3月に取締役会を去った」という。フィリップに経営を円満に引き継ぎ、モーリスは10億フラン超と言われる途方もない資産を手にした。

だがこの離別の裏には、別の事実が隠れている可能性がある。19年の連邦裁判所の判決文書では、15年初めにフィリップがモーリスを解雇していたことが明らかになっている。フィリップは、モーリスが取締役会への報告なしにSICPAの競合事業を展開していると非難していた。モーリスが投資していたのは、コンタクトレス決済(非接触型決済)会社のゴー・スウィフ(GoSwiff)だった。このデジタルソリューションは、SICPAの収入源である紙幣印刷と競合するものだ。

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「セキュリティー・インク部門が当社グループを支える柱の1つであり、『キャッシュレス』決済が深刻な脅威になることに貴殿が気づかなかったとは言わせない」。フィリップがモーリスにこう記した解雇通知書は、19年8月29日の最高裁判決でも言及されている。

さらに、「SICPAグループは紙幣の大量流通とその維持・発展によって収入を得ている」と続け、「そのため、あらゆるキャッシュレス・ソリューションが、特に当社顧客がそれを採用する場合には、我々にとって直接的な不利益になる。これらの理由から、当社の従業員そして取締役としての貴殿の立場には、重大かつ否定できない利害の対立がある」と通告していた。

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だがヴォー州裁判所は18年にモーリスに有利な判決を下し、SICPAに1060万フランの賠償金の支払いを命じる。

裁判所は、モーリスが社外で行っていた活動は会社への忠誠義務に明らかに反すると判断し、SICPAに解雇の正当性を認めた。だが、フィリップが14年に事実を把握しておきながら15年までモーリスを告発しなかった点において、その対応の遅れによりSICPAは「従業員」を即時解雇する権利を失ったと判断した。

SICPAは判決を不服として連邦裁判所に控訴した。だが最終判決が出る前の19年6月26日、モーリスは仏サントロペで心臓発作のため68歳で亡くなった。その1カ月後に出た最高裁判決は、モーリスに有利なものだった。

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デジタルの矛盾

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19年のフィリップ・モーリス対決からは、SICPAが紙幣流通量の減少にどれほど苦悩していたかが読み取れる。2000年代始めから迫っていた脅威だ。世界的なデジタル決済ソリューションの広がりは、SICPAにとって重大危機を意味していた。時を追って見れば、同社の収益は各国中央銀行の発行する紙幣数に比例していた。

SICPAはこの脅威に対応するため、これまでの章で見てきたように他業種への多角化を迫られた。まずはブラジル(07年)、カナダ(08年)、米国カリフォルニア州(20年)でたばこと飲料のトレーサビリティー契約を獲得。アフリカでもモロッコ(10年)、ケニア(13年)、ウガンダ(18年)、そしてトーゴ(20年)と契約を結んで躍進した。

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新分野にも乗り出した。例えば2016年、アラブ首長国連邦・ドバイで、衛生規則に則って詰め替えられていることを保証する飲料水ボトルの追跡システムに同社技術が採用された。スイスでは同年、製薬会社クラリアント(Clariant AG)と提携し、手術用器具の正規性を証明するためにSICPAの特殊マーカーを使用している。18年にはトルコで、イスタンブールの有名なトプカプ宮殿を含む54の博物館の入場券管理システムの落札に成功した。
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16年には、石油製品を分子レベルでトラッキングする技術を持つカナダ企業「グローバル・フルイッズ・インターナショナル(Global Fluids International)」を1600万ドルで買収した。この化学印字では、石油の精製、加工、流通過程で不正の検出が可能になる。例えば、ある貨物が希釈された場合、サプライチェーンのどの過程で混合があったかを追跡できる。この石油トレーサビリティー・ソリューションは現在、ウガンダ、タンザニア、ケニアで採用されている。

17年にはエストニアの「デジタルガバメント」を提供する現地企業「ガードタイム(Guardtime)」と提携。SICPAは22年にジュラ州からデジタル公文書のセキュリティー管理を受注した。「セルタス(Certus)」と呼ばれるこの技術を使えば、市民が請求した法的文書の抜粋をQRコードで保護できる。

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だが、挑戦が全て成功したわけではない。21年の「COVID証明書」デジタル化の入札では大きな挫折を味わった。SICPAはローザンヌのIT企業「ELCA」と組み、連邦内務省保険庁に入札した。セルタス技術をベースに、ブロックチェーンによる分散化とセキュリティー確保を実現するものだった。だが政府は最終的に独自のソリューション開発を決定し、「ワクチンパス」の設計・開発を連邦情報技術・電気通信局(BIT/OFIT)に委託した。
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財務情報が一切公表されないため、16年から猛スピードで進められた多角化の努力が、どれほど成果を上げているのかを知るのは難しい。だが、状況は思わぬ方向に進んでいる。電子決済企業に投資し一族企業の将来を脅かしたとしてモーリスが解雇され、経営多角化から5年以上が経過した今、SICPAの伝統的な紙幣用インク事業は終わりを迎えるどころか、これまでになく好調だ。
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中銀バンカーらが「銀行券のパラドックス」と呼ぶ、至るところで見られる現象がある。欧州や米国、オーストラリアやシンガポール、他の国でも現金の需要が増えているが、驚いたことに、同じ地域では紙幣を使った取引決済は減っている。コンタクトレス決済や決済アプリ、電子商取引(Eコマース)が普及し、財布からは少額紙幣が消えた。この点ではSICPAは間違っていなかった。だが並行した現象、つまり紙幣の流通量が同時に劇的に増加することは誰も予想していなかった。

このパラドックスに着目した21年の欧州中央銀行(ECB)の報告書によれば、20年末の流通ユーロ総額は1兆4350億ユーロで、19年の1兆2930億ユーロから11%増加した。新型コロナ危機でこの増加傾向はさらに強まった。

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同様に、米ドルの流通総額も20年だけで16%増加し、初めて2兆ドルを超え20年間で4倍になった。スイス中銀は19年に、現金の需要が特に高額紙幣に集中していると指摘した。

「高額紙幣では特に、看過できない量の買いだめが起きている」。この現象は「2000年代に入ってから、そして最近の金融・経済危機以降に著しくなった」と述べている。

豊かな国の人々はもはや、現金払いをしなくなった。それでも、タンス預金をしたい人もいるだろう。英誌エコノミストによると、高額紙幣の「買いだめ」の裏には、脱税やマネーロンダリング(資金洗浄)、麻薬取引などの犯罪経済が隠れている可能性がある。だがSICPAには理由など関係ない。紙幣が印刷されるたびに儲かり、印刷数が多ければ多いほど会社は繁栄するのだ。

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終章

搾乳用グリースを新事業に転用して会社を発展させた一族の長、モーリス・アモンの天才的な発明からおよそ100年。その発明は今でもファミリービジネスの原動力になっている。16年以降は多角化にも挑戦し、新たな市場を開拓した。そのビジネス手法は徐々に時代に追いついてきている。
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21年、SICPAは戦略担当部長として元連邦情報機関(NDB/SRC)長官のジャン・フィリップ・ゴーダンを迎えると発表した。プレスリリースでは、世界が「多種多様で」「前例のない」脅威に直面する中で、政府や監督機関に「主権を強化できるセキュリティーソリューション」を提供することを「常に考えている」と述べた。こうした約束が今後の信頼回復につながるかどうかは、時の経過とともに明らかになっていくだろう。

(敬称略)

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製作

調査・本文: François Pilet & Marie Maurisse

マルチメディア制作: Helen James & Carlo Pisani

編集: Dominique Soguel & Virginie Mangin

グラフィック: Kai Reusser

企画: Dominique Soguel
翻訳(英日): 由比かおり

画像: Yanick Folly (トーゴ), Pascal Staub (イラスト), drone footage (著作権), Reuters, SRG SSR / SWI swissinfo.ch, Keystone, swisscastles. chalamy.com, Getty Images, Sicpa, Wikimedia/commons, Agenzia, Fotogramma, Gotham City

英語原文はアンリミトラスト・キャンパスの目的を明確にし、会社が出願した特許の件数を明記するために2022年8月12日に更新されました。


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  • Credits: AFP, Agenzia Fotogramma, Alamy, Bundesarchiv / Gotham City, Carlo Pisani / SWI swissinfo.ch, Getty Images, Gotham City, Keystone, Keystone / The Print Collector / Unknown, Library of Congress / Wikimedia Commons, Marie Maurisse, François Pilet , RTS / SWI swissinfo.ch, Reuters, SRF / SWI swissinfo.ch, SRF / SWI swissnfo.ch, SWI, SWI / Pascal Staub, SWI Yannick Folly, SWI swisissinfo.ch, SWI swissinfo.ch, Sicpa, Steve Mack / Alamy, Swisscastles.ch, U.S. Embassy in the Philipines, Wikicommons, screenshot: Vanity Fair / Metro, screenshot: www.bger.ch, swissinfo.ch

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