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スイス製薬業界の過去、現在、未来

ロゴ https://stories.swissinfo.ch/history-of-swiss-pharma-japanese

イントロダクション

過去100年で最も壊滅的なウイルスのパンデミック(世界的流行)から抜け出す道はどこにあるのか。今、世界中がその答えを製薬業界に求めている。約1世紀にわたり医薬品産業の国際拠点であり続けてきたスイス。山岳地帯の小国が製薬を通しどのように産業界の巨人にのし上がったのか?また過去数世代で最大の感染症の危機に直面した今回、各社はどう対応したのか?スイス製薬会社の長い歴史を紹介する。



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ライン川から世界へ

スイスにワクチンや様々な治療薬が登場するずっと前、この国には染料の入った桶があった。スイスの製薬産業は、欧州における絹織物貿易の繁栄に貢献した化学染料産業から発展したものだ。

既に19世紀後半、バーゼル化学工業(後のチバ社)、ガイギー社(後のJ.R.ガイギー)、ケルン&サンド社(後のサンド社)はバーゼルで名のある企業に発展していた。現在の製薬業界で当時の名前を残すのはサンドだけだが、これらは全て後の製薬大手ノバルティスを形成する前身会社となった。
また1896年、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ社(現在のロシュ)は化学分野でのノウハウを医薬品事業に応用し、医薬品に特化したバーゼル初の企業となった。

写真:ガイギーの工場。独グレンツァッハ、1924年(ノバルティス)

 

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バーゼルには立地的な好条件が揃っていた。フランスとドイツの国境に位置するこの街は交通の便が良く、染料が不可欠な織物やシルクリボン産業のライン川上流域における拠点でもあった。ライン川は製造に必要な水を供給し、染料工場から出る有毒な廃棄物の処理にも都合が良かった。

またスイスには1907年まで化学プロセスを特許で保護する制度がなかったため、バーゼルの企業は外国製の医薬品を全く問題なくコピーできた。

写真:バーゼルのサンド。ザンクト・ヨハンに置かれたケルン&サンドの最初の工場。1890年頃(ノバルティス)






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ノバルティスの前身会社は、原材料の取引や合成染料の開発、商品のカラフルなラベル作りなどからスタートしている。

チバ、ガイギー、サンドの3社は、三原色を刷り重ねる技法「クロモリトグラフィー」の欧州における黄金時代の一端を担っていた。1930年代までは、色とりどりのラベルが貼られたバーゼル製の染料がアジア市場にあふれていた。

写真:製造検査台帳に使われたアニリンブルーの色見本(ノバルティス)


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イラスト画:香港で売られたガイギー製品のラベル。フランソワ・アペル社印刷会社、パリ。アペルは1875年~1890年まで欧州の主要企業と提携していた(ノバルティス)
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19世紀末になると、バーゼルの染料会社は合成染料のノウハウや原料の一部を薬の製造に利用できることを発見した。

恐るおそる参入した医薬品事業だったが、製品は早くから利益を生み出した。

サンドの売上高における医薬品の割合は1914年の時点でわずか1割だったが、1952年には同分野が主力事業に成長していた。

写真:1930年代のサンド(ノバルティス)

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やがて時代の経過とともに企業の売却や買収、合併が進んでいく。かつて激しい競合関係にあり、企業文化も大きく異なったチバとガイギーの合併は、バーゼルでは驚嘆の目で見られた。合併から数年後も、従業員はそれぞれ旧チバや旧ガイギーに忠誠心を持ち続けていたという。

1996年にはサンドとチバ・ガイギーとの合併でノバルティスが誕生。バーゼルの商業登記上、過去最大の企業合併となった。スイス史上においても、この合併は今日に至るまで過去最大の企業合併の1つとされる。ノバルティスの社名は、ラテン語の「新しい(novae)」と「芸術・技術(artes)」に由来する。

農薬大手シンジェンタやクラリアントといったスイスの多国籍企業の多くも、バーゼルの化学産業にルーツを持つ。

【年表】
1758年 ガイギー創立(1914年J.R.ガイギーに改名)
1873年 バーゼル化学工業創立(1945年チバに改名)
1886年 ケルン&サンド創立(1939年サンドに改名)
1896年 ロシュ創立
1970年 チバとガイギー合併
1996年 ノバルティス誕生

写真:(Keystone)






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写真:新生ノバルティスグループのロゴの製作現場、1996年
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ノバルティスが長年の合併の産物である一方で、ロシュは製薬会社として創業以来、その家名を守り続けている。

1896年10月1日、フリッツ・ホフマン・ラ・ロシュは28歳の若さでロシュを創業した。会社の将来が危ぶまれる中、同氏は1920年に他界。死の前年には財務状況の悪化を受け、会社を公開有限会社に変更している。

最終的には創業者一族が会社の支配権を獲得し、創業から約125年経った今でも、株式の過半数は創業者の子孫が保有する。2001年にはロシュとノバルティスの合併案が浮上。合併は破談になったが、ノバルティスがロシュ株式の3分の1を保有し、議決権ベースではロシュ家に次ぐ大株主となった。

写真:フリッツ&アデル・ホフマン夫妻(F.ホフマン・ラ・ロシュ)

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スイスが医薬品産業の中心地と言われる所以は、ノバルティスとロシュの存在だ。スイスはまた、何百もの外国の大手製薬会社や、小規模のバイオテック企業や製造業者、ヘルスケア関連の新興企業、サービスプロバイダーの拠点でもある。

スイス経済の粗付加価値における医薬品産業の割合は、1980年の約1%から、現在は約5%に成長。2020年のスイスの全輸出額の約45%は医薬品が占める。

スイス医薬品の最大の市場は5割を占める欧州連合(EU)で、単一国としては米国が最も重要だ。米国への輸出は過去20年間で11%から24%へと倍増した。


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写真:バイオ製薬会社ジェネンテックのキャンパスと本社の航空写真。米カリフォルニア州サウスサンフランシスコ(alamy.com)
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染料ビジネスを背景に、バーゼルの企業はいち早く国外の市場に進出していった。製薬業界への参入後は、小さなスイスの国内市場の枠を超え、国際成長することが生存競争には不可欠だった。

既に1912年、ロシュは横浜に「科学事務所」を開設し、日本のトップを行く大学教授らとの交流を深めた。チバもそれに続き、大阪に科学事務所と営業グループを立ち上げている。

20世紀前半、スイス企業は生産・輸送コストを下げ、輸入規制を回避すべく中国や日本、ロシア、アルゼンチン、ブラジルなどの諸外国に子会社を設立した。

これらの企業はまた、スイスの中立政策を盾に、デリケートな地政学的問題を巧みにすりぬけた。第二次世界大戦中はバーゼルの企業がナチス政権と取引したため、中立の是非が問われた。ロシュは戦争捕虜を労働力として利用していたが、同時に多くのユダヤ人科学者をベルリンのオフィスから移転させ、迫害から救った。

写真:チバの上海支社。1938年頃(ノバルティス)

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1919年、米国進出を巡り、バーゼル化学工業の役員らの意見は二分していた。米国流の「エゴイスティックな」ビジネスに対する嫌悪感に加え、企業機密が米国に流出することを恐れていたためだ。

そんな中、「米国は未来の国だ」と声を上げた役員もいた。「今、この機会に生産体制を整えなければ、数年後には完全な締め出しを食らうだろう」。その1年後、バーゼル企業はオハイオ州シンシナティにある古い染料工場を購入した。

一方、ロシュは早くからニュージャージー州ナットリーに工場を立ち上げた。これが世界大戦中に幸いし、1943年にはナットリー工場の売上がロシュ・グループの売上高の半分を占めるまでに発展した。

写真:バーゼルの化学会社が共同で買収した米オハイオ州シンシナティにあるオールト・ウィボーグ社の工場(ノバルティス)

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1970年のチバ・ガイギー合併後、初代CEO(最高経営責任者)に就任したサムエル・ケヒリン。米国での経験に触発され持ち帰った経営理論は、企業の成長を促すと同時に、スイス企業の階層制や内部構造を崩壊させた(ノバルティス)
1970年のチバ・ガイギー合併後、初代CEO(最高経営責任者)に就任したサムエル・ケヒリン。米国での経験に触発され持ち帰った経営理論は、企業の成長を促すと同時に、スイス企業の階層制や内部構造を崩壊させた(ノバルティス)
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1970年のチバ・ガイギー合併後、初代CEO(最高経営責任者)に就任したサムエル・ケヒリン。米国での経験に触発され持ち帰った経営理論は、企業の成長を促すと同時に、スイス企業の階層制や内部構造を崩壊させた(ノバルティス)戦後、スイスの製薬業界は好景気に沸いたが、その一方で外国との競争も激化していった。

ペニシリンをはじめとする抗生物質の発見でドイツ企業が苦戦する中、英国や米国企業がその穴を埋めていった。もっとも、20世紀半ばの「治療革命」と呼ばれる時代には新薬開発への投資が急増し、業界全体が潤っていた。

第二次世界大戦後の20年間は売上が好調で、バーゼル企業はグローバルプレイヤーとしての地位を固めていった。

1970年のチバ・ガイギー合併後、初代CEO(最高経営責任者)に就任したサムエル・ケヒリン。米国での経験に触発され持ち帰った経営理論は、企業の成長を促すと同時に、スイス企業の階層制や内部構造を崩壊させた(ノバルティス)
1970年のチバ・ガイギー合併後、初代CEO(最高経営責任者)に就任したサムエル・ケヒリン。米国での経験に触発され持ち帰った経営理論は、企業の成長を促すと同時に、スイス企業の階層制や内部構造を崩壊させた(ノバルティス)
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優れた頭脳の争奪戦

スイスの化学産業に与えられた最初の課題は、大衆のための製品を大衆の手で作ることだった。当時の他の業種と比べて給料は高かったが、汚く危険な染料工場での仕事が大半だった。だが医薬品への転換で状況は一変し、従業員は染料のタンクを洗浄する代わりに、錠剤を包装したり、実験室で作業をしたりするようになった。また一流の科学者を確保することは、名声や称賛、そして利益に直結した。

バーゼルの化学・製薬業界における労働者数は1937年の時点で約4300人。2018年には約3万2千人がライフサイエンス業界に従事する。

写真:オーストリアのサンド研究所にある寄生虫学研究室(ノバルティス)



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写真:バーゼルのサンド。染料のろ過装置を空にする作業員。1950年(ノバルティス)
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化学産業が医薬品に転向したことで、女性にも門戸が開かれた。製薬会社の拡大に伴い、社内の管理体制を整える必要性が生じると、女性が秘書や包装係として雇用されるようになった。

記録係から動物学者まで、1954年にチバにあった101の職種のうち、請求書作成係、福祉係、秘書、清掃係の4つは「女性の仕事」として明記されていた。これは同年に実施された調査に基づく。

また同調査によると、当時の従業員の比率は男性89.6%に対し女性10.4%だった。現在、ノバルティス社員の45%は女性だ。

写真:サンドの包装工場の屋根。バーゼル、1959年(ノバルティス)




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アリス・ケラー(F.ホフマン・ラ・ロシュ提供)
アリス・ケラー(F.ホフマン・ラ・ロシュ提供)
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研究室や役員室では、少数の女性が頭角を現した。バーゼル出身で政治経済学の博士号を持つアリス・ケラーは、バーゼルのロシュに1年勤めた後、東京の子会社(1925年設立)に就任。ロシュの記録では、1926年に30歳の若さで来日した同氏は当初、手紙の処理や書類の修正、会計処理といった秘書の仕事からスタートし、帰国後ロシュ初の女性役員に昇格(1939年)。当時の女性として驚くべきキャリアを達成した。
アリス・ケラー(F.ホフマン・ラ・ロシュ提供)
アリス・ケラー(F.ホフマン・ラ・ロシュ提供)
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この業界の成功要因の1つに、学術機関、とりわけ連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)との密接な関係がある。

トップの科学者は王族さながらの扱いを受けた。それが企業内の上下関係をさらに硬直化していった。

経営者の多くは、「ダイク」と呼ばれるバーゼルの社会的・経済的エリート層の一員だった。受賞したノーベル賞の数が彼らの大きな誇りだったという。

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写真:ホフマン・ラ・ロシュの建物の内装、1928年(ホフマン・ラ・ロシュ提供)
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バーゼルでは、今も製薬会社がある種のステータスを保ち続けている。スイスの製薬会社のCEOは、欧州で最も報酬が高い部類に入る。

製薬会社の典型的な従業員のプロフィールも、グローバル化や生産体制の国外シフトに伴い変化していった。工場の従業員やバーゼルのエリートに代わり、スイス社会のはみ出し者とされていた「定住外国人」が社内に溢れるようになった。企業内やバーゼル市内の一部では、地元言語のドイツ語より英語の方が広く話されているほどだ。

写真:スイスで最も高いビル「ロシュタワー」。2022年には更に高いビルが加わる予定だ(Keystone)

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写真:スター建築家、フランク・O・ゲーリーが手掛けたノバルティスの「ゲーリービル」(ノバルティス)
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業界に回ってきたツケ

1970年代から80年代にかけて製薬業界では悲惨な事故や不祥事が相次ぎ、スイスや世界中を震撼させた。1976年にイタリアのセベソにあるロシュの子会社工場で起きた化学物質の事故や、1986年にスイスのシュヴァイツァーハレにあるサンドの工場で起きた火災事故をきっかけに、後に製薬業界全体の規範となる安全対策や環境保護対策が整えられていった。

こういった事故は世間の怒りを買い、企業の対応の遅さや責任逃れなどが声高に批判された。

育児用ミルクを発端とするネスレ製品のボイコットや、インド・ボパールで起きた大規模な毒性ガスの漏洩事故、チェルノブイリ原発事故といった災害やスキャンダルが起こるたびに、世間は大手多国籍企業の影響力とやり方に疑問を抱き始めた。

写真:1976年7月10日、伊ミラノ近郊にあるロシュ子会社のセベソ工場で化学反応器が爆発した(Keystone)






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1986年11月1日、スイス北西部シュヴァイツァーハレにあるサンドの工場で火災が発生し、汚染物質がライン川に流出。その環境被害はオランダにまで及んだ。

火災で焼失した倉庫には千トン以上の殺虫剤や農薬が格納されていた。事故で赤く染まったライン川では無数の魚が死に絶え、市中には異臭のする煙が立ち込めた。

憤った地元住民は対策を求めたが、サンド経営陣の誰一人としてこの事故の責任を問われなかった。それから何年も経った後、ノバルティスはスイス国内やその他の被害を受けた国々に約4300万フラン(当時の約37億円)の損害賠償を支払うことで合意した。

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写真:シュヴァイツァーハレの災害後、防護服で清掃作業を行う消防署員(Keystone)
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今日では、製薬業界がここまで大規模の災害をスイスで起こす可能性は低いが、コスト削減でサプライチェーンの多くが外国にシフトしたため、それに伴う水質汚染や安全性のリスクは依然として存在する。

今は医薬品有効成分の大半が中国で生産され、インドで完成した医薬品になる。そこでは医薬品工場の排水が大きな問題になっている。

写真:抗生物質などの医薬品を製造する工場からの排出物がインド・ハイデラバードの主要な水路を汚染した。2008年(Keystone)



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ホフマン・ラ・ロシュのバーゼル本社で発泡性ビタミン剤を詰める作業現場。1991年(Keystone)
ホフマン・ラ・ロシュのバーゼル本社で発泡性ビタミン剤を詰める作業現場。1991年(Keystone)
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1990年代には世界中の製薬業界でスキャンダルや風評被害が吹き荒れたが、スイス企業も決して無縁ではなかった。この業界には強欲なイメージがあり、患者を利用して得た多額の利益で高額な給料を支払っていると思われていた。

ロシュは1999年、米国で「ビタミンカルテル」における有罪を認め、5億ドル(約572億円)の罰金を支払った。同社はビタミンの価格を上げて固定し、競合を排除する世界的な策略を展開していたとされる。その2年後、欧州委員会は同社に同様の制裁金を課した。

またノバルティスは2020年、自社の医薬品を処方するよう医師を買収した疑いで、米国当局に業界最大級の罰金7億2900万ドルを支払っている。






ホフマン・ラ・ロシュのバーゼル本社で発泡性ビタミン剤を詰める作業現場。1991年(Keystone)
ホフマン・ラ・ロシュのバーゼル本社で発泡性ビタミン剤を詰める作業現場。1991年(Keystone)
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精神科医ローランド・クーン(トゥールガウ国立資料館 )
精神科医ローランド・クーン(トゥールガウ国立資料館 )
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また、薬の開発や実験に用いられる方法には、倫理的に問題があるものもあった。

広く知られているケースの1つに、ガイギーが抗うつ薬トフラニールとして販売していたイミプラミン開発に携わった 精神科医、ローランド・クーンが挙げられる。

クーンが院長を務めていたスイス北東部のミュンスターリンゲン精神科医院では、1946年~80年にかけて3千人もの患者が「実験用モルモット」にされていた。患者が自ら実験に志願することはまれで、投与された薬についても殆ど知らされていなかった。

正式な臨床試験でも、患者の同意や差別的な行為、秘密義務といった重大な倫理的問題は常に伴う。

精神科医ローランド・クーン(トゥールガウ国立資料館 )
精神科医ローランド・クーン(トゥールガウ国立資料館 )
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また、低所得国の患者が企業の慣行、とりわけ独占や高価格の影響に苦しむケースも頻発した。

これはヒト免疫不全ウイルス(HIV)/エイズ危機で激化した。ロシュやノバルティスなど39社のグループは1998年、抗レトロウイルス治療薬の安価なジェネリック医薬品へのアクセスを認める法律を定めた南ア政府を提訴した。ロシュは当時、HIV診断薬や治療薬の主要メーカーだった。

法廷争いが続いた3年間、製薬業界は現地の工場を閉鎖し、国への投資を削減した。その間、南アフリカは世界で最もHIV感染率の高い国になっていった。だが世界保健機関(WHO)や欧州連合(EU)、米国政府など公からの圧力に屈し、企業はようやく訴訟を取り下げた。

これにより、ジェネリック医薬品メーカーは特許を取得した医薬品を大量生産できるようになった。だがスイスの製薬会社はその後も、特許保護を緩和し自社の治療薬をより安価に製造することに断固として反対の立場を取り続けた。

写真:製薬会社がエイズ治療薬で利益を得ることに抗議し、南ア・プレトリア市内を行進するデモ隊。2001年(ロイター)

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治療薬を求めて

製薬会社の不祥事が相次ぐ中、スイスの製薬会社はうつ病や不安神経症、マラリア、パーキンソン病、がんなどの治療に効果的な薬を次々に開発していった。鎮痛薬のパントポンやバクトリムなど、初期の製品のいくつかは今も使用されている。

しかし企業の研究・投資分野が、株主や公衆衛生上の要望を反映しているかどうかは疑問視される。

写真:1955年、ロシュの化学者レオ・スターンバックはベンゾジアゼピンという抗不安薬を発見。リブリウムという商品名で販売された(F.ホフマン・ラ・ロシュ社提供)

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1959~69年にかけて、マーケティング部門が大きく貢献し、バーゼルの全ての化学・製薬会社の売上高は3~5倍に増加した。

しかしヒット商品が低迷すると、企業は新しい製品や事業分野に戦略を素早くシフトしなければならなくなった。バーゼルの企業は農業や栄養、診断など、さまざまな分野に分散していった。すぐに売却された部門もあれば、後の成功に不可欠になった部門もあった。

やがて1970年代、分子生物学と遺伝子工学の台頭と共に、業界に大きな変化が訪れた。

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腫瘍や神経疾患などの分野では利益が見込めるが、患者が少なすぎたり価格が低すぎたりして魅力がない疾患の多くは放置されてきた。政府の奨励金により、一部の疾患への投資は促進されたが、その他多くの疾患、特に貧困国で見られる疾患への研究は衰退していった。

これはワクチンや抗生物質などの分野にも影響を与えた。2007年の時点で世界第5位のワクチンメーカーだったノバルティスは、2009年の豚インフルエンザの発生時、需要に応えるべく新しいワクチン製造に投資した。だがパンデミックの収束とともに売上が急減。同社は2014年に他の分野に専念するためにワクチン部門の売却を決定した。

抗生物質市場では、価格の安さと使い過ぎが問題となっている。菌の薬剤耐性が強まる中、新しい抗生物質の開発は急務だが、ノバルティスもロシュも、1990年代後半以降、新しい抗生物質の研究を行っていない。ロシュはようやく近年になり、研究を再開した。

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ジェネンテックの共同設立者の微生物学者ハーバート・ボイヤー。遺伝子工学革命の先駆者の1人とされる(Getty images)
ジェネンテックの共同設立者の微生物学者ハーバート・ボイヤー。遺伝子工学革命の先駆者の1人とされる(Getty images)
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やがてバイオテクノロジー関連の新興企業の台頭により、業界は新たな競合に直面する。ロシュは、最初の大手バイオ企業の1つである米カリフォルニア州のジェネンテックを買収し、1986年にロシュ初の遺伝子組み換え製剤「ロフェロンA」を発売した。

遺伝子を使った治療方に対する不信感が根強く残る地元スイスでは、1998年に「バイオテック・レファレンダム」と呼ばれる国民投票が行われた。その結果、トランスジェニック動物(細胞内に人為的に遺伝子を組み込んだ動物)の禁止案が否決され、スイスにおけるバイオテック産業への道が開かれた。この投票は、スイスが強力なバイオテック産業を望んでいる明らかな表れだと理解された。



ジェネンテックの共同設立者の微生物学者ハーバート・ボイヤー。遺伝子工学革命の先駆者の1人とされる(Getty images)
ジェネンテックの共同設立者の微生物学者ハーバート・ボイヤー。遺伝子工学革命の先駆者の1人とされる(Getty images)
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過去10数年で、スイスの製薬会社はワクチンなど「大量生産」の製品からますます遠ざかり、一人ひとりの体質や病気のタイプに合わせた治療「個別化医療」に照準を合わせるようになった。

健康データとその分析技術が不可欠となった今、製薬大手のみならず、ヘルスケアビジネスに参入したグーグルやアマゾンなど、大手ハイテク企業もロシュとノバルティスの競合相手に変貌した。

その結果、将来性のある技術を持つ革新的な小企業の買収が加速。中には政府から資金援助を受けている企業もあった。ノバルティスとロシュは、人工知能(AI)のベンチャー企業から遺伝子治療専門のスタートアップ企業まで、2000年以降にそれぞれ40社以上の企業を買収している。

ノバルティスは2018年、遺伝子治療に特化した米国の小規模バイオベンチャー企業AveXisを買収。2019年、脊髄性筋萎縮症の根本原因である遺伝子の機能欠損を補うための注射剤「ゾルゲンスマ®点滴静注」の米食品医薬品局(FDA)承認を取得した。治療は1回の点滴静注で完了し、価格は210万ドル(約2億4千万円)だ。

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ノバルティスとロシュ両社は、スキャンダルを「過去の遺物」として片付け始めた。今、彼らが求めているのは、社会の中で製薬会社が果たすべき役割を示す新たなストーリーだ。もはや薬を作るだけではなく、「生活を向上させる」イノベーションを生み出すことが業界には求められている。

だが製薬業界に対する疑念や不信感は根強い。法外な金額の医薬品が増加する中、各国政府はその支払い方法に頭を悩ませ、企業の収益や、誰に価格交渉の主導権があるのかといった疑問を抱き始めている。

写真:2019年6月、スイス全土で行われた女性ストライキのロゴがロシュタワーに投影され、男女平等を求める運動への連帯を示した(Keystone)

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パンデミックの襲来

2020年初頭にWHOが新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の危機をパンデミック(世界的大流行)と宣言した際、ロシュはCOVID-19検査の開発で最前線に躍り出た。またロシュとノバルティス両社は、既存の医薬品を治療に使えないか早急に調査を進めた。

だがワクチンとなると話は違ってくる。スイスの製薬会社ロンザは、米モデルナのmRNAワクチンの有効成分を製造するパートナーとしての契約をいち早く締結し、ノバルティスも、米ファイザー/独ビオンテックのワクチン製造への協力を申し出た。だが効果的なワクチン開発をリードするスイス企業は1つも現れなかった。

2021年初頭、人々はワクチンがスイスに到着するのを心待ちにする一方で、なぜ革新的な製薬大手のひしめくスイスでワクチンが1つも開発されなかったのか、理解に苦しんだ。

写真:ロシュ・ダイアグノスティックス研究所でアラン・ベルセ内務相にCOVID-19簡易検査を見せるハラルド・ボアマン氏(Keystone)




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写真:バーゼルのノバルティス・キャンパスの航空写真(ノバルティス)
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今回のパンデミックでは、材料や人材、投資、製品に至るまで、スイスがいかに世界に依存しているかが露呈した。外国や中小企業との競争が激化する中、医薬業界の拠点としてのスイスの地位が揺らぎ始めている。そのため業界では、貿易障壁を撤廃し、外国の人材へのアクセスの改善や、研究開発や新興企業への投資促進を求める圧力が強まっている。

パンデミックによる社会的・経済的な影響は、デジタル技術と並行し、企業文化の変化を促した。2020年、ノバルティスは製薬会社として、またスイス企業として世界で初めて、パンデミックの終息後も社員がどこから仕事をしても良いように方針を変更した。これはトップダウン経営を減らす全体的なシフトの一環だと同社は説明している。

また今年に入り、社員証がないとアクセスできなかったキャンパスを徐々に公に開放すると発表した。

映像:ノバルティス

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今では、空の染料タンクはバーゼルの遠い過去の名残だ。ライン川沿いに残る古い化学染料工場の多くは、取り壊されたり、オフィスやアパート、レクリエーションスペースとして再利用されたりしている。

バーゼルは依然として製薬産業の中心地だが、企業やサービスプロバイダーは、スイス国内だけでなく世界中に拡散している。今、企業が求めているのは、優秀な科学者だけではなく、コンピュータサイエンスやAI、データ分析に優れた専門的な人材だ。

今回のパンデミックは、スイスの医薬品業界のターニングポイントとなるだろうか?それにはまだ多くの疑問が残されている。どうやって社会のニーズと株主の要求を満たすのか?薬を必要とする全て人に医薬品を提供するには?企業はこの先も、私たちが求める技術革新に投資し続けるだろうか?

資料写真: Keystone

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出典

Oral History, Chemistry and Urban Culture of the Association for Industrial and Migration History of the Basel Region.

Georg Kreis, Beat von Wartburg (Hg.) Chemie und Pharma in Basel. November 2016

Tobias Ehrenbold. Samuel Koechlin und die Ciba-Geigy. 2017

T. Ehrenbold, Ch. Hatzky, Ch. Helm, W. Hochreiter, M. Rothmann, J. Salaks. Roche in the World 1896-2021: A Global History. 2021

ロシュ歴史資料室、F. ホフマン・ラ・ロシュ

Novartis: How a pharmaceutical world leader was created out of Ciba, Geigy and Sandoz. 2014

ノバルティス・インターナショナル、社史・資料室

EY. The largest pharmaceutical companies worldwide. 2020

Interpharma Health Panorama, 2020.

Interpharma. Pharmastandort Schweiz 2030; Region Basel.

Michael Grass, Simon Fry. The Importance of the Pharmaceutical Industry for Switzerland. BAK Economics. 2017.

Lukas Straumann, Daniel Wildmann. “Swiss chemical firms in the ‘Third Reich’”

米司法省 Swiss Executive Agrees to Plead Guilty and Serve U.S. Jail Time. May 20, 1999.

スイス公共放送(SRF)、スイス国際放送(SRI)資料室








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Gallery Products

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Digalen - ロシュが心臓病の治療用に開発したDigalenは、1904年にハート型のボトルで販売された。
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Sirolin - 1898年に発売された咳止めシロップ「Sirolin」は、第一次世界大戦の勃発までロシュの主要製品だった。オレンジの香りと巧みな広告で、商品は瞬く間にヒットした。
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Gynergen(エルゴタミン) - サンド最初の主要医薬品の1つに1918年に発売されたエルゴアルカロイドがある。産後出血の対処にアピールするためGynergenという商品名で販売された。
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DDT - ガイギーの化学者パウル・ミュラーが発見したDDT(殺虫剤)は、農作物の病気や害虫に対抗するための魔法の武器としてもてはやされた。後に環境への悪影響が判明して以来、有毒物質の代名詞として扱われるようになった。
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LSD - スイスの化学者アルバート・ホフマンは、サンド勤務時代にリゼルギン酸ジエチルアミド(LSD-25)を発見した。1943年、自ら薬を服用して研究室から自転車で帰宅中にLSDの向精神作用を発見した。
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ヴァリウム - 精神安定剤ヴァリウム(ジアゼパム)はロシュの化学者レオ・スターンバックが開発した。ローリング・ストーンズの楽曲「マザーズ・リトル・ヘルパー(Mother's Little Helper)」にも登場するこの薬は、長年米国で最も処方された薬の1つだ。

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ハーセプチン – ロシュの子会社ジェネンテックが開発したハーセプチン(トラスツズマブ)は、腫瘍の表面に潜むタンパク質を標的とし、新時代の治療薬の幕開けとなった。ハーセプチンはHER-2陽性の乳がん治療に特化した最初の治療薬。
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カルシウム・サンド– このサンド初のベストセラー商品は1929年にさかのぼる。カルシウム欠乏症およびその関連疾患の治療に使用された。カルシウムは現在もサンドの主要製品。
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ボルタレン – チバ・ガイキーは1974年にリウマチの治療薬としてボルタレンを発売した。今では140カ国以上で痛みや炎症を伴う様々な症状に使用され、最も研究されている医薬品の1つだ。
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リタリン – チバが開発した精神刺激薬のリタリン(メチルフェニデート塩酸塩錠)は、1950年代半ばに成人のうつ病治療薬として承認された。その後、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の子供の集中力を高める効果が証明されたが、同薬が過剰に処方されていることが判明し、反発を受けた。
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プロスチグミン - ネオスチグミンとしても知られる。当初、慢性的な自己免疫疾患である重症筋無力症の筋力低下を緩和するために製造された。ロシュは1931年に同薬の特許を取得。
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Rimifon - ロシュを含む3社は、1952年に同抗生物質を結核の治療に販売する予定だったが、既にチェコの科学者2人が1912年に合成していたことが判明した。
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Gallery_Geigy promotional designs

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ガイギーのドクメンタのポートフォリオ/animals dormidos(仮訳:眠る動物)
ゴットフリード・ホーネッガー、1955年
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痒み止めクリーム「オイラックス」の広告カード
アンドレアス・ヒス、1956年

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社報「ガイギー・カタリスト16号」の封筒
フレッド・トロラー、1964年

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プロセスイエロー4GL用インサート
片山利弘、1963~64年

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ガイギーのイルガピリンとオプタルモロジーの広告用パンフレット、1953~56年
デザイン:イギルド・G・ビーゼレ(スイス、1930年生まれ)
依頼主:J. R.ガイギー、バーゼル、スイス(1914~70年)

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抗真菌剤「ステロサン」用のブロッティングボード(医師向け販促品)
ネリー・ルーディン、1952年
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繊維用染料のプロモーションポスター「マキシロン・ブリリアントに乗り変えよう」、1965~69年
デザイン: ブライアン・ストーンズ(英)
依頼主:ガイギー、英マンチェスター
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ガイギーの染料の広告、ガイギーのイルガレイン、1954年以前
デザイン:カール・ゲルストナー
依頼主:J.R.ガイギー、スイス・バーゼル、1914~70年
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ガイギーのポスター「ゲサロールで守っています」、1946年
デザイン:マーティン・パイカート、スイス、1901~75年
依頼主:ガイギー、スイス・バーゼル
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プレルディン(塩酸フェンメトラジンのガイギー商品名)の広告、1965年
デザイン:フレッド・トロラー(スイス、1930~2002年)
依頼主:ガイギー・ファーマシューティカルズ、米アーズリー(1970年まで)
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  • Helen James(レイアウト/写真編集)、 Jessica Davis Plüss(文章)

    Credits: 4.0 International (CC BY 4.0), @SRF, Alamy.com, Courtesy F. Hoffmann-La Roche Ltd, Basel, ETH Archiv, Hoffmann-La Roche, Keystone, Keystone , Keystone / AP/ Mahesh Kumar A, Keystone / Heiz Leuenberger, Keystone / Michael Kupferschmidt, Keystone /Erwin Zbinden, Keystone/Gaetan Bally, Keystone/Georg Gerster, Keystone/Interfoto/TV-Yesterday, Lars Müller Publishers GmbH, Novartis AG, Photo: Grafiksammlung, Museum für Gestaltung Zürich, ZHdK, Photo: Plakatsammlung, Museum für Gestaltung Zürich, ZHdK, Reuters, Schweizerisches Sozialarchiv, Staatsarchiv Thurgau, alamy.com/Smith Collection/Gado, getty images, pixabay/auntmasako, sciencemuseumgroup.org.uk, swissinfo.ch, © Hoffmann La Roche, © Hoffmann-La Roche, © Novartis AG, ©Hoffmann-La Roche, ©Hoffmann-La Roche AG, ©Novartis AG, ©SRF

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